日本の戦争史の中で最も重大な出来事である原爆の搭載地。 今まで日本における戦争に関わるポイント、真珠湾に始まり広島・長崎・沖縄・戦艦ミズーリなどを訪れて来て、大きなポイントとして残っていたテニアンにやっと行くことが出来ました。 狭い島に真っ直ぐに作られた道…この道を日本を地獄に落とした原爆が通ったと思うだけで、怒りのような気持が込み上げました。 テニアンには戦争の跡やタガ遺跡、そしてとても美しい海があります。テニアンブルーと言われるほどの見事な美しさです。 今回は日帰りで行きましたが、次回行く時は宿泊して綺麗な海をもっと堪能したいと思いました。



(作成中)



サンライズ・サンセットの両方が眺められるんです。 満潮、荒天時には近づけないけど、岬の突端の岩場にこんな素敵なベンチが置いてあるなんて、洒落てるぅ♪ 潮風、荒波で錆びてはいるけれど、とっても素敵な海の特等席ですね。 夕方には争奪戦があるのかな? この日の夕焼けはとても綺麗で、幻想的でした。 TDLや海ほたる、幕張・・・へ行かれた方もご覧になられたと思います。 綺麗でしたねっ?



サイパンにいるうちにボートダイビングの仕方も教わっておこうと思い、OWの講習後すぐに予約しました。 苦手なボート、初めてのバックロールエントリー。 心臓バクバクで苦しくなるし、波酔い&船酔いするしで自分的には大変だったけど、潜ってしまえば楽しい♪ 欲張ってグロットまで連れて行って貰いました。 後日ビーチダイブをお願いしましたが、海の状況が悪くて希望だったオブジャンには潜れなくて、ラウラウビーチの少し変わった穴穴穴コースを潜って来ました〜 FUNダイビング アイスクリーム、パイプポイント、グロット、ラウラウビーチ。 カラックHP http://www.kalak.jp/ ブログ http://blog.goo.ne.jp/kalak_diving_school



前回の画像と重複するお店が多くなってしまったのですが、初シアトルのJJが一緒なのでついつい同じ場所になってしまいました。というのはこの人、たとえそこが私にとっても初めての場所だとしてもフル・アテンドを要求するタイプなので、「果敢に挑戦」→「ごめんごめんハズレだったネ」が続くことは許されないのです。『好き好きシアトル』チームに与えられたミッションは、「また来ようネ」の一言を引き出すのみ!神様、お天気はお願いネ! 画像はニードル・スペースと、West Denny Wayと4Ave(ヨンアベって読んでネ)の角に立つビルディング。



2006年の9月、職場の夏休みを利用してどこかへ行こうと考えていました。 当初の予定では、9月の半ばが休みが取りやすいので、そこで考えていました。 ところが、当初の予定の日程に仕事が入ってしまい、急遽1週間早めることにしました。 最初の候補は中国の広州でした。見積もりまでもらってたんですが、中国は、食事を他の外国人観光客と同じ皿をわけあうみたいなことを聞いたので、妻が拒否反応を示し、行先を変更しました。 最終的にタイに決めたのが出発の5日前でした(笑) なんの下調べもなくとりあえず行ってみました。



カウントダウン直後、あたり一面、暗黒になりました。 いきなり停電です。 遠くて救急車のサイレンがしました。 クタ方面で花火で染まる空が異様に赤いです。火事のよにも思えます。花火は爆発音みたいに連続してなります。 何だか分かりませんが暗闇を染める空の色 打ち上げ花火とは違うと思いますが。 詳しいことは分かりません。



?の続き。 母親とのトルコ旅行。 トロイを出てエフェス遺跡へ。 エフェス遺跡の続きからです。



 戦前我が家は広島の港町宇品で旅館を営んでいた。当時広島市内には陸軍師団の駐屯地があり、広島湾には戦艦長門や大和を建造したことでも知られる軍港呉を抱え、そして世界三大兵学校の一つ、海軍兵学校が広島湾に浮かぶ江田島に作られた。名実ともに広島は日本の軍都であり、陸海軍とは切り離されぬ町だった。  広島港は呉港と比較すると海が浅いため大きな艦船は広島港に入港できず、広島湾に停泊していたと祖父は言う。水兵や士官達は休息や家族との接見の為に沖に停泊した艦からボートで広島に上陸した。その受け入れ先が広島の港町宇品だった。宇品の旅館は軍人やその家族たちが多く滞在し、当時宇品は大変賑わっていたそうで、旅館も繁盛していたという。しかし私の祖父は長男であるにも拘らず旅館を継ぐ事を好しとしなかった。  祖父は国鉄に就職するも、上司と喧嘩して僅か数年で飛び出してしまう。この時祖父の母親の悲嘆ぶりは今の私にも容易に想像できる。退職したからといって、我が家に戻るのでは面子に関わる。祖父は知り合いの伝で鹿児島の工場で旋盤工になる事を決意する。そして鹿児島で旋盤工の職人として歩み始めた祖父は、此所でハルピンでの仕事を紹介され、渡航することとなった。  祖父は下関から航路釜山に渡り、列車でハルピンを目指した。祖父の話によると、列車はピョンヤンを経由し、満州国の首都新京(現在の長春)まで向かい、新京で南満州鉄道に乗り換え、釜山からハルピンまで二泊三日で目指したという。列車は朝鮮半島を抜け、満州国に入ると平原を直走った。地平線から昇る太陽を祖父は初めて見た時のことを、幼い私に目を輝かせて話してくれた。平地の少ない広島では、地平線からの夜明けを見ることなんて到底あり得ない。祖父はその大自然から陽が昇って行く景色に感動したのだ。 そしてハルピンに到着し祖父の新生活がスタートしたが、異国の満州での生活は全てが新鮮だった。厳寒な冬ですら彼にとっては刺激をもたらすものに過ぎなかった。 「銭湯通いはそりゃ寒かった。でも楽しかった。銭湯の帰り際にタオルを一回振り回しただけでカチカチに凍るんじゃけー。広島じゃどがいに(どんなに)寒うても、そがいなことはなかろう。ようそうやって遊んどったもんじゃ。」 「ハルピンには松花江ゆう、そりゃ大きい川があってのぅ。太田川(広島市内に流れる最大の川)なんか比べ物になりゃーせん。そんとな川が冬になったら凍るんじゃけー! 歩いて川を渡ることができるんで。わしゃ、タマげたわ。」 祖父は半世紀以上前の体験を、ついこないだ経験したかのように楽しそうに話してくれた。  ハルピンはロシア人によって開拓され、急速に発展したことは知られている。アールヌーボー、バロック、ビザンティン様式など、様々な建築様式で彩られ、当時『東洋のパリ』と謳われた。またソ連共産主義者から逃れて来た多くの白系ロシア人が居住し、アジアと言うよりもまるでモスクワやレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)に在留しているような気分だったと祖父は言う。 「ハルピンはのぅ、『東洋のパリ』ゆうて言われとったんじゃ。それぐらい美しく国際的な町じゃった。」 ロシア人、漢族、満州族、ユダヤ人、日本人が住み、この他諸外国の施設も多く置かれたハルピンは、その別名に違わぬ美しく、そして国際色豊かな町だったのだ。そんなハルピンの美しさに祖父は惚れこんだ。  このロシア香るハルピンの話を私は幼い頃から聞いて育ち、私は大きく影響を受けた。そしてロシア(当時ソ連だったが)に興味を持ち、派生して学生時代にはハンガリーや旧ユーゴ諸国を研究した。人生のスタート地点が広島であれば、学業と旅のスタート地点はここハルピンなのだ。祖父が辿った道程で未だ見ぬハルピンを目指したかったが、行く手を北朝鮮が遮っている為、残念ながらその軌跡を辿ることはできない。その為私は大連からハルピンを目指した。大連は別項でも御紹介した通り、私は出張で滞在することが多く、また祖父がハルピンに渡航した同時期に祖母の親戚が在留していた馴染みある町だ。大正時代の日本の面影を残す大連は、日本人にとり中国で最も生活し易い町だと言われている。  5月下旬、アカシアの花が大連を優しく包み込み、町は白花で彩られる。純白の花は、厳しい冬を乗り越え、ようやく訪れた春から夏への移ろいを知らせ、命の息吹きを感じさせる大連の象徴の花。戦前の大連を知る日本人はこのアカシアの花咲く頃になると古き良き時代を思い出すと言う。大連は日本政府にとり中国東北部経営の重要な拠点でもあり、ハルピンまで続く満鉄の起点でもある。2都市間の約940kmの距離を、最高時速130km/hで12時間半をかけて超特急列車「あじあ号」が結んだ。「あじあ号」は当時の日本最高の鉄道技術が凝縮された超特急列車、満州の在留邦人ばかりでなく、内地の日本人にも親しまれていた。私はこの「あじあ号」の軌跡を追うように大連から夜行列車でハルピンへ向かった。現在では大連を21時50分に出発した列車は、最高時速160km/hで走り、翌日7時20分にはハルピンに到着、9時間30分で結んでいる。  今回敢えて気候も厳しい12月を旅に選んだのは、祖父が最も楽しげに幼い私に語っていた厳しい冬のハルピンを体験したかったからにほかならない。私が訪れた時ハルピンは最低気温が⁻17℃、最高気温でも⁻6℃だった。ハルピンでは平年並みの気温ではなかろうか?  約100年前のロシア建築が建ち並ぶハルピンの中心街は、一時毎年のように訪れ、慣れ親しんだロシアの町並みを思い起こさせ、私を懐かしさに浸らせた―まるで幼なじみと邂逅したかのように。嗚呼、この町並みを見て祖父はロシアを想像したのだろうな。ロシアを知る私でさえもハルピンの町並みはロシアそのものに感じたのだから、祖父がモスクワやレニングラードに滞在した気分になるのも納得する。大連にも旧ロシア人街はあるし、大連で最も美しい中山広場はロシア人によって建設された。しかしこの旧ロシア人街は戦後明らかに帝政ロシアの建物を意識してその特徴を強調して改修した観があり、興冷めしてしまう。また中山広場は大連の統治権が帝政ロシアから日本に移され改修が行われたので、大正時代の日本の香りがする。しかしハルピンのロシア建築物は、それ自体ロシアにあっても何らおかしくない程外観の保存状態が良い。  私はロシア建築が建ち並ぶ大通り、中央大街を散策後、松花江へ向かい、岸辺で川をしばらく見つめた。川は祖父の言うとおりアスファルトのように凍てつき、天然のスケートリンクが出来上がっていた。氷上ではハルピン市民が氷上でスケートをしたり、ソリをい引いたりと楽しんでいる。また1キロ離れた向こう岸まで歩いている者もいる。かの時代、ハルピンでの開拓を夢見て海を渡った多く日本人も、厳しい冬の中にあっても、こうして一ときの楽しみに興じていたのだろう。  河岸に立つと凍りついた川から冷気が足元を這う様に私を取り巻き、靴の底から体が冷えてくる。そして風が吹くと、冷気は鋭い刃物となって露出した肌を掠め、まるで切り傷でもできたかのように肌が痛む。それでも河岸から私はしばらく動くことができなかった。60有余年の時を経て、今こうして私は祖父と同じ景色を見ていると思うと感慨深くなり、どんなに寒くとも足が動こうとしなかったのだ。私の感情に、「そんとに急がんでええ。寒いじゃろうがもうちぃと(もう少し)ここで松花江を眺めさせてくれぇや。」、とまるで祖父が語りかけられているかのように。ようやく訪れることのできたハルピンを実感できたのは、この松花江だ。私はようやく辿りついた私自身の旅の、そして学業のスタート地点をこうしてかみ締めた。  祖父が亡くなって今年で11年が過ぎた。生前、ハルピンにもう一度行きたいと私に口にしていたので、祖父が生きている間にこのハルピンに連れていきたかったが、これも今となっては叶わぬものとなってしまった。その祖父の代わりに私はこの目にハルピンを焼き付けて帰国した。旅をして久しく写真を現像していないが、ハルピンの写真は印刷して仏前に飾っておこうと思う。きっと祖父もゆっくり写真を見たいだろうから・・・。



現在生活している街、東京。 時々洋館を見にいったり、散策したり。。。 その時々の記録です。